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侠侶、市中見廻り ~その2~ [二条城周辺]

 鼻うがいしても、昨日の花粉症は辛かった。

 そんな新撰組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

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侠侶、市中見廻り ~その1~ [二条城周辺]

 ここ数日、花粉症で眠れません。

 夜中に、二三度、鼻が詰まり、窒息して目が醒めます。




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元離宮 二条城!!! [二条城周辺]

 二条城書くのに、どんだけ時間かかっとんねん!?

 というお叱りも、遂になく、また二条城です!しかも第三弾!

 

 王政復古の大号令の後、小御所会議で、徳川慶喜の辞官・納地が決定したことに、反発した旧幕臣、会津藩・桑名藩が、武装して二条城に集結しました。

 なんでも、薩摩の裏切り者が、二条城に攻め込むという噂が流れたからなのですが、このことを危惧した慶喜が、彼らを引きつれ大坂城に入城。そこで、新選組が二条城の警備を任されることになりました。

 それでか知らんが、二条城に来るたびに、血が騒ぐぜ!

 しかし、水戸藩も、二条城を警備するように言われてたため、新選組と水戸藩がもめて、もめて、もめ倒し、結局、伏見奉行所にむかうことになりました…。

 大体、水戸藩が、何してん!?

 

 

 この建物は、本丸御殿です。

 もともと五層の天守閣が建ってましたが、寛延三年(1750)に、落雷で燃えました。天明八年(1788)は、大火によって、殿舎も焼失しました。

 そこに、京都御所にあった桂宮邸を、移築したのが、現在の本丸御殿です。

 御所にあった頃は、徳川家茂公に嫁がれる前の和宮さまが住んでおられました。

 しかも、孝明天皇が、仮皇居として使われたという由緒ある建物なのです!

 

 また二条城に行きたくなってしまった…。

 大坂城の自動販売機は、「入場券」

 ですが、二条城は、「入城券」です。こだわりを感じる。

 


元離宮二条城 2 ~二の丸御殿~ [二条城周辺]

 「幕末紀行」ってタイトルのくせに、「武侠!武侠!」って、なんなんだ!?というお叱りもないので、適当に復活!幕末紀行

 管理人の新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 考えたら、新選組って、幕末最大の武侠集団やな~。せやから、武侠小説と新選組は、そんなかけ離れた存在じゃないのです!と無理やりこじつけてみました。アハハ

 

 二条城!

 前回は、多分、二条城は、徳川家だけの為の「ホテル」という説明をしたように思う(遠い昔に書いたので、正直覚えてません…)

 次は、二の丸御殿です!

 この二の丸御殿の中にある大広間(二条城の中で、もっとも格式のある)で、慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜(よしのぶ)が諸大名を集め、大政奉還(たいせいほうかん)を発表しました。

 教科書にでてくる写真は、ここの写真です。しかし、撮影禁止なので、撮れませんでした…。

 考えたら、二条城って、結構、歴史の大事件の舞台になってるな~。

 

 話が変わりますが、かつて、十四代将軍家茂公のときは、会津藩と新選組は、家茂公を伏見から二条城まで、警護しながら送ったりしたこともありました。

  次回は、もちょっと、新選組と二条城のこと書きまする!

 では!

 

 


元離宮二条城 1 [二条城周辺]

 今日から二条城が、26日まで「本丸御殿特別公開」です!

 今回行けない方は、春にも特別公開してますので、その時、是非!

 

 新選組にとっても、この二条城がゆかりの地なんですが、この副長助勤たくいたにとってもゆかりの地です。たくいたが、季節毎に訪れる名所は、宇治の平等院。東山の清水寺。嵐山の天龍寺。そしてこの二条城です。

 考えてみたら、平等院以外は、幕末に関係ある寺や城ですな~!

 二条城周辺は、結構取り上げたのですが、二条城は、まだだ!ということに気付きました。

 

 二条城。

 伏見城の遺構を移して造られたという…。先日行った、近江は長浜の大通寺も伏見城の遺構を移して造られたというし、そう思ったら、伏見城って、すごいんですね!

 僕の伏見城の印象は、関東人に関西遊園地を紹介するのに、「日本の二大遊園地といえば、東の東京ディズニーランド、西の桃山城キャッスルランドやな。すごいよ~!」

 と言って、紹介したものだ。

 関:「へ~!?初めて聞いた名前だけど、本当にすごいの?」

 僕:「すごい!すごいよ!シンデレラの城に対抗して伏見城やから!」

 関:「今度、関西行ったら、行ってみるよ!」

 実際、凄い!(しょぼくて)。

 

 1603年、徳川家康が、京都御所の守護のためと、上洛の際のホテルとして造営。ここで、豊臣秀頼と会見したり、大坂冬の陣・夏の陣のとき、軍議を開いたのも、この二条城なんです。

 1634年、家光が、ここに来て以来、1863年、家茂公が入城されるまで、全く使われておりません!もったいない!

 ホテルとしてこんな立派な城造っておいて、200年以上もほったらかしなんて…。

 しかし、黒船が来航し、日本国内の情勢が変わってから、この二条城は、再び、歴史の表舞台に現れるのです!

 当時、新選組が屯所を置いた壬生村から二条城までは、田園風景が続いて、城がよく見えたそうです。

徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる、江戸から派遣された武士によって警備されていました。毎年2組(1組50人)が4月に交代して番にあたりました。この番所はそうした詰め所の一つです。


福井藩邸跡 京都国際ホテル前 [二条城周辺]

 

散髪しました。たくいたです。

 昨日、ツクツクボウシが鳴いてました。もう夏も終わりですね。八月入る前は、あんなに弾けよう!弾けよう!と思ったのに、遠出したのは、近江・長浜に一回行ったっきり…。

 九月は弾けよう!

 

 久々の幕末スポットは、福井藩邸跡です!

 あまりの久々の幕末スポットの紹介に、「あ~ここは、幕末スポットを紹介するところやったんや~」と痛感しますなぁ。

 福井藩といえば、松平春嶽!

 そこで、松平春嶽を、サクッと紹介すると、

 田安家出身。福井藩主。名は慶永、春嶽は号。有能な人材を門閥にとらわれず登用、開明的な政策をとり名君と称された。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが、井伊直弼により隠居・謹慎を命じられる。このとき、橋本左内も、処分される。井伊直弼が、桜田門外の変で暗殺されると、この隠居・謹慎も解かれる。1862年勅旨により政事総裁職として慶喜とともに復帰。一時期、京都守護職にも就く。慶喜の文久幕政改革をたすけ、世界との通商による日本の富国強兵を主張した。王政復古後は、幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力。明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担った。

 我らが松平容保公に、京都守護職就任を要請し、再三断られるも、保科正之公の家訓を出して説得し、京都守護職に就任させたことは、有名な話です。

 正直、新選組の僕にとっては、ここしか強い印象ありません、松平春嶽。

 その福井藩邸が、二条城のすぐ近く、現在の「京都国際ホテル」にあったようです。ここには、あの坂本龍馬も何度も訪れたところです。


京都守護職屋敷正門(移築)   [二条城周辺]

 実は、このブログは、新選組のブログなんです。たくいたです。

 最近、金庸先生の小説やドラマにはまって、武侠漬けになっていて、このブログの中における「新選組率」が、かなり低下してますが、「新選組」のブログなんです!

 

 二条城の周辺というのは、新選組スポットが多い。

 全日空ホテルがあるんですが、実は、ここもスポットなんで、後日、書くとしますが、このホテルの裏に「門」があります。この「門」は、移築されたもんなんですが、この門こそ、京都守護職屋敷正門なのです!

 なんの説明書きもないんですが、門だけあります。

 ちなみに、八坂神社の隣の駐車場にある門も「京都守護職屋敷」の門です。

 京都守護職屋敷は、今の京都府庁にありました。

 

 この京都守護職屋敷で、悲劇がおこりました。

 慶応3年 三月。伊東甲子太郎ら高台寺党が、新選組から脱退。

 その後6月10日、新選組は、幕府直参に取り立てられました。しかし、茨木司、佐野七五三之助、冨川十郎、中川五郎の4名が、この幕府直参になることを拒み、伊東の高台寺党に参加しようとするのですが、新選組と高台寺党との取り決めの中に、離脱者の受け入れを認めないというものがあったので、伊東は、この4名の高台寺党参加を拒否。

 そこで、この4名は、新選組脱退を求めて、京都守護職屋敷へ駆け込みました。

 京都守護職屋敷の一室に、この4名を待たすのですが、待ちくたびれているところを、この知らせを聞いて駆けつけた新選組隊士数名が、障子越しに、槍で突きました。4名は、突然の襲撃で怪我をしながらも、刀を抜いて応戦しましたが、力及ばず惨殺されました。

 佐野七五三之助は、大石鍬次郎の槍で腹を刺し抜かれながらも抜き打ちに斬りつけ、大石鍬次郎に手傷を負わせたらしい。

 

 

 


小浜藩邸京都屋敷 [二条城周辺]

 

 お盆、仕事で忙しく、なかなか更新できなかった新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 「最近、新選組ネタ、少ないやん!」とお叱りの新選組ファンの皆様、すみません。

 久しぶりなので、地味に「小浜藩邸京都屋敷跡」で再開したいと思います。

 

 二条城近くの刀剣屋の「開陽堂」さんが、この小浜藩邸京都屋敷跡にあります。

 文久二年 六月。この小浜藩の酒井忠義という藩主は、京都所司代だったんですが、寺田屋騒動や安政の大獄の関与を咎められ罷免されてしまい、閏八月に隠居、十一月には蟄居を命じられ、小浜藩邸は空き家になります。

 このころ将軍後見職だった一橋慶喜は、東本願寺を拠点に、政治活動をしていたが、なんしか御所まで遠く、不便だった。。。

 そこでかねてから関係の深い小浜藩の京都屋敷の提供を受けたという。

 ですから、ここは、一橋の政治拠点なのです。

 

 僕らにしてみれば、部下を置いて敵前逃亡した、「屁タレ将軍」なんで、どうでもいいところなんですが…。


京都所司代 [二条城周辺]

 新選組ファンの方が、このサイトを訪れ、あまりの新選組っぷりに感動したみたいです。あはは
 そら~新選組の人間の書いたブログやさかい、当たり前のことですわ。

 そんな新選組ファンをうならせた「ほんまもん!新選組副長助勤たくいた」のブログへようこそ!
 ほんまもんの新選組の魅力を、ぐっと紹介しますよ。ワ~オ~!(原田年晴さん風)

 前回、「京都東町奉行所」について書いたから、今回、西町やろ!?と思ったあなた!

   甘い…

 新選組副長助勤たくいた、天邪鬼にございまする。
 今回は、京都所司代です!
 実際は、永井さまのことを書きたいんで、西町は、後日ということで。

 京都所司代というのは、関西の治安維持のためにおかれた役職なんです。
 しかし、実際は、室町時代は、都は京都(今もね!)だったので、ほとんど必要なかったんですが、江戸時代、政治の中心が、江戸に移ってからは、鎌倉幕府の「六波羅探題」にならって、西日本に睨みを効かすため置かれました。

 しかし、幕末。京都所司代だけでは、畿内の治安維持は困難との理由から、京都守護職が置かれ、京都所司代はその下に置かれました。
 京都守護職は、松平容保様。京都所司代は、容保様の弟、桑名藩藩主松平定敬(まつだいら さだあき)さまである。
 


京都東町奉行所 [二条城周辺]

 久々に、幕末紀行します。
 考えたら、亀山本徳寺以来ですか…。更新滞ってすみません。
 復帰一号が、京都東町奉行所って、地味やな~!
 と、御思いの方!

 正解です。地味です。

 そうだ!京都に行こう。なんて言って、いの一番に、ここへ訪れる人は、まずいないでしょう!
 そういうところも紹介するのが、このサイト。
 
 場所は、二条城の近くです。二条城の南側。道を挟んで、NTTか何かの敷地内にあります。
 二条城の見学の空いた時間にでも、見学してください。

 京の町に、天誅の嵐が吹き荒れた幕末。
 文久二年九月二十三日、近江国の東海道石部宿にて、ここ東町奉行所の与力 森孫六、与力 大河原十蔵と西町奉行所与力 渡辺金三郎と上田助之丞が、「安政の大獄」の際、志士狩りで暗躍したため、田中新兵衛や岡田以蔵や久坂玄瑞ら三十名に襲われました。4人は、身の危険を感じ、江戸へ逃げる途中の出来事でした。
 上田は、重傷を負い、七百屋兵助宅にて絶命。
 残る3人は、斬り殺され、首は、竹につるされ、京都粟田口の刑場にて晒されました。

 しかし、写真もこれだけか。。。

 やっぱり地味やな…

 


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