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島原住吉神社 ~島原西門のすぐそばにあったので…~ [島原]

 ゴールデン・ウェーク、いかがお過ごしでしょうか?
 僕は、仕事です。
 いつもより、忙しいです。
 更新もままなりません。

 仕事からの帰り、CDショップに立ち寄って、南かなこさんの「かなこの浜っ娘ソーラン」を買いに行ったのですが、売り切れていたのか店頭に並んでいませんでした…。
 今度、河原町のCDショップで見てきます。
 http://www.sachiko.co.jp/kanako/
 http://columbia.jp/~minami/  こちらは、動く南かなこさんが見れます!あはは

 ということで、今日は、サクッと行きます!
 島原住吉神社は、昔は、かなり広い境内を有した神社だったらしいのですが、明治に入ってから、神社株を持ってなかったため、廃社となったらしいです。
 しかし、地元の人達から愛されていた神社なのでしょう!明治36年、神社として復活します!しかし、「住吉神社」は、正式社名に認められなかったため、「稲荷神社」という神社名で、今の狭い敷地に移ったそうです。
 今では、「島原住吉神社」になっているので、地元の人達、頑張らはったんでしょう。

 では!


角屋 ~新選組、勤王の志士の思い出スポット!~ [島原]

 これからの季節、ラジオイベントが多いのに、服装も軽装になっていくので、腹筋頑張っている新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 気分は、水着を着る季節前の女の子状態さ!

 三十路を過ぎると、新陳代謝が落ちるぜ!!

 くだらない近況から始まりました。
 
 角屋。
 当時、角屋さんのお勘定っていうのは、「つけ」が基本。京都の商いは「信頼」が第一やさかい。
一見さんお断りも、こういうことかもしれませんね。
 新選組の平隊士の中には、金を持ってないくせに、ただ酒にありつこうと、しばしば角屋さんに行ってたらしいです。そら角屋さんも、新選組嫌いになるわ~。
 しかし、近藤局長が、今までの勘定は全て払うから、以後、金の無い隊士には、酒など出さなくて結構!不具合があれば、局に届け出るように!と金銭面で、きちっとするようにしたんですが、それを知らずに来た平隊士を、角屋さんが入店拒否しました。すると、怒った平隊士が、角屋さんの玄関に刀で斬りつけるという狼藉を働いてしまいました…。
 これが僕の部下なら、詰め腹を斬らせるんですが、この狼藉を働いた隊士は判っていません。
 角屋さん、すみません。

 角屋さんに入店するときは、皆、刀を預けなければなりません。その刀は、刀箪笥に鍵をかけて、しっかり保管されるんですが、新選組は例外で、帯刀で入店できました。
 何故って!? それは「仕事」やから!

 この角屋さんには、新選組以外にも、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、坂本龍馬さん、山縣有朋、伊藤博文、大隈重信、月照…らも角屋に来て、軍資金調達の為に、鴻池、加島屋などの豪商を招き、宴会をして接待したそうです。

 壬生の近くでこんなことするなんて、不逞野郎たちだぜ!(龍馬さん、除く)

 西郷隆盛は、ここに「マイ たらい」を持ち込んで来ていたらしく、そのたらいで、よく水浴びとかしたらしい(我儘か!?西郷!何をやっとるか!?)。
 第二次大戦のとき、京都の道を拡張しようという計画が持ち上がったとき、角屋さんも立ち退きを命じられました。しかし、当時の陸軍にとって神様的存在の「西郷さん」の「マイ たらい」があったほどの西郷さんゆかりの「角屋」を移転させていいのか!?という論議が軍部の中で、起こったらしく、結局、結論が出ないまま終戦。結局、角屋さんの移転の話は立ち消えしたという伝説の「たらい」が置いてあります。


角屋 ~新選組筆頭局長 芹沢鴨  最期の宴~ [島原]

 昨日は、JR福知山線の脱線事故で、気分が重くて、なんか記事を書く気分になりませんでした。
 「安全に人を運ぶ」という基本を忘れているのでは?と思う。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

 今日も角屋!多分、明日も角屋!!
 角屋さんは、幕末のエピソードいっぱいのスポットなんですよ。

 芹沢鴨。周知の通りの「暴れん坊」
 でも、「浪士文久報国記事」とか、史実を扱った本を読んで思うのは、司馬遼太郎をはじめとする小説家が描くほど、そこまで悪党じゃないってことです。
 武士としてのプライドを傷つけられたときに、ブち切れることが多いのですが…。多分、ブチ切れ方が、凄まじくて、ちゃんとした主張してても、「芹沢、怖ぇ~!」みたいな感じになってるような…。

 しかし、そうは言っても、やっぱり芹沢。無茶します。酒が入ると暴れます!酒が入らないと、教養もあるし、絵も描くし、武芸にも秀でてるし、かなり一角の人物なんですが…

 酒乱なんです。

 女に気に入られないときは、髪の毛を切らせます。(無茶しよんな~)

 一説には、芹沢鴨は、「脳梅毒」で暴れるとの説も…。それを紛らわすのに、酒を飲む。酒乱だから暴れる。暴れるから不評を買う。というサイクルで、粛清されたのかもしれません。

 蛮行を重ねる芹沢鴨。そんな芹沢一派を粛清しろ!と近藤局長をはじめとする「試衛館」派に、会津藩から、指令が出される。

 そら、「会津藩」を前面に出されて、蛮行を繰り返されたんじゃ、会津藩もたまったもんじゃない!

 芹沢粛清計画の仕掛け人、副長土方歳三さんは考えた。まともに斬り合ったら、こちらも無事ではすまない!芹沢派は、みな「神道無念流」!酒をしこたま飲ませ、寝込んだところを襲撃すれば、芹沢を確実に仕留めることができる!と。

 すばらしい!

 粛清の夜。
 この角屋さんで、新選組宴会を開きました。場所は、大座敷「松の間」。江戸時代、有名だった「臥龍松」が庭にあったから、この名前がつけられたという。
 写真の場所で、芹沢鴨は、その晩に殺されるとも知らずに、土方副長にすすめられるがまま、酒を飲んだのでしょう。

 庭には、3つの茶室もあり、とてもきれいな庭です。

 

 


角屋 ~芹沢鴨、暴れる!~ [島原]

 これ書いたら、伏見をプラっとするかな。
 新選組副長助勤たくいたです。

 昨日から、角屋さんのことを書いてます。
 ここ角屋は、新選組や勤王の志士もよく来たそうで、島原西門から角屋に向かうと、「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」と記された石碑が目に入る。

 なんや!?あいつ、ここ来とったんか!
 壬生から南1kmのこの角屋は、新選組屯所の目と鼻の先。そんなとこで密議するとは、不逞野郎だ!こんなとこでも、「勝てば官軍」なんだ、と感じてしまう。決して「新選組近藤勇 酒宴の角屋」とは記されんもんな~。
 
 いくら当時の京都が判官びいきの土地柄とはいえ、あんまりじゃ~ありませんか!?(氷川きよし風)

 こんな下らん石碑があるくらいだから、結構、久坂も来店してたんでしょう。よく店内で会わなかったな!?ま、会わない工夫を,当時の京都の店はするからね。

 芹沢鴨と角屋とは、いくつかエピソードがあるのですが、
 新選組で大集会を開くことになり、屯所では、隊士が多く手狭なので、島原の揚屋「角屋」で宴会を開くことになった新選組。
 娼妓や芸妓、舞妓の総揚げとなった。しかし、店の主人角屋徳右衛門と新選組は、かねてから仲が悪く、芹沢は、かねてから、店の態度に腹が立っていた。この日は、店の仲居が一人もいなかったので、芹沢の堪忍袋の緒が切れて、いきなり太鼓を店の外に放り出すと、愛用の鉄扇で、器を壊していき、三味線で床の間の掛け軸を破り、壺なんかも割っていきました。これを見た女たちは、慌てて逃げ出しました。

 ひとしきり暴れまわった後、芹沢鴨は、
 「これで気分がさっぱりした!」
 と言って、角屋を一週間営業停止処分にしたという…。

 新選組の隊士の中には、狼藉を働く者がいるから、徳右衛門さんが、新選組嫌いなんは分かるけど、この件は、しゃーないな。

 ちなみに新選組11番隊は、このころの新選組の名残から、3000円以上取るくせに、まずい料理を出す店では、暴れていいことになっているので、京の料理屋は、要注意!


角屋 ~新選組副長助勤たくいた、二階に感動す~ [島原]

 昨日、京都寒かったんで、晩、お腹冷えて、腹桃桃でした。
 割と、胃腸の弱い新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 酒も、飲んで~飲んで~飲まれて~飲まれて~♪
 大概、飲まれてます!

 角屋。
 以前、角屋、入場料1000円~(怒)
 なめとんかい!?もう一本、入り口に刀傷、増やしたら~!!

 と息巻いておりましたが、昨日、行くと、あまりに観客が少なかったので、幸運にも、1800円で、予約しないと見せてもらえない、二階も見ることができました!ラッキー

 一階見学、1000円。正直高い。これは、僕の感想として、変わりません!
 一階、二階見て、1800円。これは、見る価値あります!!僕は、2000円まで払ってイイ!!と思いました。
 一階、800円にして、二階1000円にしはった方が、いいと思う。

 二階は、撮影禁止なんで、どんな感じかだけ説明します!
 
 二階で一番、感動したのは「青貝の間」
 黒色の壁やふすまや、あらゆるところに、青貝がちりばめられており、中国風な感じが、和の「角屋」の座敷の中でも異色で、とても趣きがあった。この壁とかにつけられた青貝の模様、これを加工する技術が、現在の日本にはなく、こういう技法は、日本でも、この「角屋」しかない!というものらしく、感動しました!この部屋には、新選組がつけた刀傷があって、威嚇するためにつけたものだとか。あえて、僕がつける必要もなく、これはこれで、メモリー。また、この部屋には、当時としては珍しく、テラスがあって、それも中国風!こういう中国趣味な感じは、宇治の「万福寺」からきたんじゃないか、とガイドのお姉さまがおっしゃってました。宇治市民の僕。そう言われても、ピンと来ず、宇治市民失格であります。とほほ。ちなみに、万福寺の和尚さんだった「隠元」が、「インゲン豆」を日本に伝えました。
 ここから見る、角屋の庭は、大変美しく、与謝蕪村ら、当時の有名な文人や画家なんかが、こぞって角屋に足を運ぶのがわかる!

 扇の間。
 天井に、扇を58枚も張り合わせたところから、「扇の間」という。この扇、今なら、店に有名人が来れば、サインを色紙に書いてもらいますよね!その「色紙」にあたるものが、当時は、「扇」でした。ですから、当代きっての有名人たちの扇が、天井いっぱいに張られてるんです。源氏香の釘隠しが、またお洒落でした。

 どんすの間。
 二階の主座敷で、ふすまが蜀江形の緞子張りから、「緞子の間」と言う。鍵隠しの「七宝」がかわいかったです。

 翠簾(みす)の間。
 襖が、御簾の絵になっていて、とても趣きのある部屋でした。

 などなど、感激もんでした!
 部屋が、すでに芸術なんです!人をもてなす為の究極の部屋の数々、凄いです…。

 とりあえず、写真がないんで、昨日、満開の桜だったお庭の写真でもアップします。

 

 次回は、角屋一階でお会いしましょう!オブリガード!!


島原西門 [島原]

 今日、京都駅ビルの「ラーメン小路」で、初めてラーメン食べたんですが、新選組の僕は、迷わず会津喜多方ラーメンの「大安」で、舌鼓を打ちました!そんな新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 
 今日は、島原西門!といっても、今は石碑があるだけですが…。
 西本願寺方面からこちらに来られる方はいいんですが、ここから壬生へ向かう方。JR丹波口駅から島原へ向かわれる方は、青果市場のあたり、車が行ったり来たりと、大変、混雑してますので、気つけて着てくださいね!
 享保十八年(1732)に、西門ができるまで、島原は、入り口が大門一つしかなかったんですが、この年から、入り口が二つになりました。中には、劇場もあったらしく、女性が入ってもよかったそうです。
 吉原が、遊女を閉じ込める為、門がひとつだったのと比べると、とても開放的やったんやね!
 考えたら、吉原は、性欲を満たすためだけの場所やもんな~。
 もっというと、吉原の花魁は、売れっ子ソープ嬢やけど、島原の太夫は、官位が与えられ、京都御所の出入りも自由なんです。格が違いすぎるね!
 西門が、今の場所に移ったのは、天保13年(1842)のことなので、新選組が壬生にやってきて、島原で暴れたり、浮名を流したりするころには、ここに門があったということです!
 ということは、芹沢鴨も土方副長も、この門をくぐったんやろな~(遠い目)
 屯所からなら、この門の方が、便がいい!角屋も近い!
 そう思うと、歴史の浪漫を感じるたくいたでした…


輪違屋 [島原]

 今日、ラジオを聴いていたら、まだ嵐山の桜が綺麗らしい。
 おお!まだ、嵐山の桜みながら、龍馬さん気分で、「日本の夜明けは近いぜよ!」と叫びたい、新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 今日は、輪違屋さんです。
 輪違屋さんといえば、「置屋」さんです。
 「置屋」といえば、角屋さんのような揚屋に、太夫や芸妓を派遣する店です。揚屋さんは、料理やお酒を提供する場所で、規模の大きいお店のことです。規模の小さい店を「お茶屋」といいます。

 輪違屋といえば、土方歳三、山南敬助、原田左之助、沖田総司が、八木邸で眠りこけている芹沢鴨達に闇討ちをかけたとき、平間重助と同衾(いい響きの言葉だ…)だった糸里が有名。糸里は、逃走に成功したので、助かってます。
 
 あと僕の尊敬する山南敬助総長の恋人だった明里も、輪違屋お抱えだったといわれています。
 
 あ、明里ーっ!!

 伊東甲子太郎の恋人花香太夫も、ここのお抱えだとか…興味、全くないけど…。

 あ!?わかった?藤堂平助さん以外の高台寺党、嫌いなのねん!

 あ!そうそう!ここは、現在も営業中なので、見学はできません…。
 見学はええとしても、一度でいいから、ここで酒飲んで遊びたい!

 男の浪漫だぜ!


島原大門  [島原]

 今日も快晴!花粉の量も減って、大分過ごしやすくなりました。
 ここ最近、幕末紀行と全く関係ない記事が続きましたので、そろそろ真面目に書こうと改心しました島原や祇園で、恋の華を咲かせたい新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!新選組の恋花は、ほとんどこの辺が舞台じゃない!?
 本当は、まだまだ三条・四条・東山に、幕末スポットを数多く残したままなんですが、なんとなく島原について書きたいので、しばらく島原で行きます!

 島原大門。
 京都駅から西本願寺へ歩いて行き、「太鼓楼」を左に曲がって行くとあります。(かなりアバウトな書き方!)
 本当は、島原っていう地名はありません。通称です。本当は、「西新屋敷」という地名です。この島原は、官許で、寛永十八年(1641)に、六条三筋町から移転するように!という達しがあり、短い期間で移動が始まるのですが、その移動の様子が、とても慌ただしく、まるで「島原の乱」のようだ!という例えから、「島原」と呼ばれるようになりました。

 島原というのは、「花街」で、お酒も飲むし、歌や舞など芸事なんかも楽しめる街で、江戸の吉原みたいな「風俗」オンリーな「遊郭」とは、違うんです。
 だから、吉原の「花魁」に対し、島原の最高位の「太夫」は、歌・舞・音曲・茶・花・和歌・俳諧なんかもできないとなれないんです!だから、角屋さんなんかには、当時の一流の文化人が集まってきはりました。

 そんな街の入り口が、「島原大門」なんですよ。
 享保一七年(1732)に、西門ができるまで、島原唯一の門でした。

 現在の門は、1867年にできた門なんで、新選組の隊士たちも、ひょっとしたら、同じ門を見てたかもしれません…。時期的に微妙…。
 
 


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