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京都御所! ~拾翠亭・幕末紀行やのに、「義経紀行」っすか…!? [京都御苑]

 今日は、仕事で疲れて、ようやくアップです…。
 新選組副長助勤たくいたのブログにようこそ!

 新選組の僕でも、京都御所を訪れる時は、地下鉄烏丸駅のトイレで、おでこの真ん中くらいに眉毛書きます。言葉使いも、カジュアルな京都弁から公家言葉で、他の隊士としゃべります。

 「今日は、いい天気でごじゃります~る~。」
 みたいな感じで。

 ウソです。

 眉毛かくのはホンマやけどね。

 今日は、拾翠亭の「義経」スポットです!番外編と思ってください。
 拾翠亭にある、鳥居が目印、「厳島神社」です!

 平清盛公が、母祇園女御のために厳島神社の神を祀ったのがはじまりで、祇園女御も祀ってあります。
 鳥居の形が、独特です。


京都御所 拾翠亭(しゅうすいてい)Ⅰ [京都御苑]

 今日で、京都御所に一般公開は、とりあえず一旦終わりますが、予約すれば観ることできますので、皆さん、是非一度、ご覧下さい。
 日本の歴史を感じることができますので。
 といっても、伍長森くんみたいに、平安・鎌倉時代を知る人も、室町時代の京都に興味ある人も、僕のように幕末の数年間だけ興味のある人も楽しめますよ!

 そんな京都の風情を伝える伝道師 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 拾翠亭は、3月から12月27日までの金・土曜と御所の一般公開のときは、公開してますので、気軽に!入場料も100円!!この直後に、八木邸に行ったら、間違いなく、もう一本、鴨居に刀傷つけたくなるので、注意!

 拾翠亭は、九条邸の別邸です。「拾翠」とは、緑の草花を拾い集めるという意味で、平安時代に貴族が、春の日に野辺に出て、草花を摘んで楽しまれたという慣わしに因んで名付けられたそうです。「翠」という字にカワセミという意味もあり、この池にカワセミが数多く飛来してきたから「拾翠」と名付けられたともいわれています。

 たしかに、京都御所自体、のんびりでき、京都御苑でのんびり過ごす人も多いですが(犬の散歩はどうかと思うよ!)、ここ拾翠亭は、時間が止まってるような錯覚を覚えてしまう…。

 幕末。蛤御門の変の時、鷹司邸の長州軍に対して、会津藩が、九条邸から砲撃したというから、当時は、ここも戦火に巻き込まれたかもしれませんが、そんなことあったのかな!?と感じてしまう。

 異次元だ~。

 そんな感じで、一応、幕末スポットということで…(無理矢理なこじつけですが)。

 次回は、拾翠亭Ⅱ 義経スポット編をお送りします。


京都御所Ⅳ ~4月6日から一般公開ですスペシャル~ [京都御苑]

 今日は、お忍びで、東山の桜を堪能してきました。
 隊士に知らせず、霊山歴史館行ってきて、「西郷隆盛」展行ったんですが、維新の道から霊山護国神社の桜がとても綺麗でした。一昨日来たときは、そんな満開でもなかったのに。

 洛中は桜が見ごろです!

 ということは、京都御所の景色も綺麗なんでしょうね!
 週末、是非是非行ってきてください。

 春興殿。東京から遷された神器を奉安した御殿。平安時代には、武器や鎧も格納された。


御内庭。


京都御所Ⅲ ~4月6日から一般公開ですスペシャル~ [京都御苑]

 京都御所。
 大河ドラマ「義経」でも、平氏や源氏が、天皇をとりこんで権力の中枢に入り込もうとした舞台。「源氏物語」など、日本の歴史に必ずといっていいほど出てくる。「新選組!」だって、孝明帝が大の異人嫌いで、会津藩の松平容保公との「絆」が、後々、新選組や会津藩を悲劇的な結末へ向かわせてしまうし、明治天皇の前で、日本の進む道が決まった、その舞台となったのも、京都御所でした。

 小御所。
 皇太子の儀式や立太子の儀に用いられる。平安時代の内裏にはなかった。将軍や幕府の使者を拝謁したのもここである。
 ほとんど受け売りです。京都御所で売っていた「京都御所」(光村推古書院)に、詳しく書いてあります。

 「小御所会議」もここで行われました。
 「王政復古の大号令」が発せられた慶応三年(1867)十二月九日 夜(って、僕の誕生日やん!?ということは、僕が生まれた105年前か~)。
 15歳の明治天皇の御前で、諸藩の藩主や公家達が集まり会議が開かれました。
 会議では、徳川慶喜公に対し、領地の返還と官位の返還を求めました。しかし、この御前会議に徳川慶喜公が呼ばれてないことに、土佐藩山内容堂公が、岩倉具視に噛み付きました。そして容堂公と福井藩の松平春嶽が岩倉卿らの意見に猛反対し、会議は紛糾(当然やわな~)。
 休憩に入り、薩摩藩の重臣岩下佐次右衛門が、岩倉卿の前で、御所の警備をしていた西郷隆盛を呼び出し、会議が紛糾したことを告げました。
 そこで西郷は、
 「それは短刀一本で用は足りもす。」
 と言った。
 それを聞いた岩倉卿が、刺し違える覚悟であると言い放ちました。それを聞いた土佐の後藤象次郎が聞いて、驚き、容堂公に、「土佐がそこまで徳川に義理立てする必要なし、岩倉卿にこれ以上たてつくことは、土佐にとって良策でない!」と進言し、容堂公が折れ、時代は明治維新へと突き進むのであった…。

 ああ、新選組や肥後守さまの手の届かないところで、時代は変わっていったんや…。

御池庭。
豊臣秀吉の五奉行の一人 前田玄以の作庭。

 


京都御所Ⅱ ~4月6日から一般公開ですスペシャル~ [京都御苑]


 今日も、今月6日から一般公開している京都御所を紹介します!
 京都御所って、考えたら、常に日本の歴史の中心だ!
 大河ドラマ「義経」でも、平家や源氏が朝廷を取り込んで権力の中枢に入り込もうとしているし、「新選組!」でも、孝明帝の外人嫌いと松平容保公との固い「絆」が、後々、会津藩や新選組の悲劇を招いてしまうし、源氏物語やその他の話でも、御所が舞台になることは多い。
 新選組スポットの中でも、最大のスケールのスポットだ!

 上の写真は、「紫宸殿」。下の写真は、承明門から紫宸殿を撮影してみました。

 紫宸殿。京都御所の正殿で南面している。安政二年(1855)に再建されました。
 明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位礼は、ここで行われました。


上の写真は、月華門です。


京都御所 ~4月6日から一般公開ですスペシャル~ [京都御苑]

 今日から5日間、京都御所、一般公開始まりました!
 新選組副長助勤たくいたも、御所行ってまいりました!
 京の都に寺社が1200。そのうち一般に公開しているのが、300くらいです。
 そのどの名所でも、太刀打ちできないのが、御所です!

 寺を観ても、そんな感動しない京都府在住の男達が、我を忘れて写真撮ったり、本を思わず買ってしまったり…。そんな御所を、拙いカメラワークで紹介していきます。

 ちなみに、僕の中で、一番、心に残る天皇陛下は、孝明帝です!

 朝九時過ぎには、御所にいたのですが、平日とは思えない 人・人・人…

 出来れば週末を避けて、平日、それも朝一で行ってください!ラジオの情報では、昼前には、行列が出来てたらしいです…。

 持ち物チェックの後、門をくぐると、御車寄(おくるまよせ)といって、位の高い貴族の牛車を止めたところと、天皇陛下が止める新御車寄(しんみくるまよせ)があります。

 新選組の僕らには、無縁です…。


京都守護職屋敷跡  ~京都府庁~ [京都御苑]

 今日は、京都府南部、とても寒いです。
 風邪・インフルエンザも蔓延し、屯所の女子も、KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」のアシスタント中村薫さんもお休み…。

 皆さんも、体調には、気をつけてくださいね!
 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 今日は、どこ紹介しようか迷ったんですが、京都御苑から近いという理由で、「京都守護職屋敷跡」に決定!
 今の京都府庁なので、御所を見学して、まだ時間あるわ~!という方は、一度、足を伸ばしてみてください。なんにもないですけど、石碑は立ってます。

 京都守護職。
 文久二年の幕政を改革したときに、新たに設けられたポストです。
 江戸時代、京の治安は、京都所司代と京都奉行所が守ってたんですが、「天誅」という名のもとに、幕臣や、京都奉行所の奉行らが、暗殺されたりと、治安が悪化していました。土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛が、無茶苦茶してたわけです。
 そこで、京の治安を守るために、京都所司代の上に、この「京都守護職」を設けたわけです。

 将軍後見職は、一橋慶喜。政治総裁職は、松平春嶽。そして、嫌がっているのに、松平春嶽に、無理矢理説得されて、その職に就いたのが、我等が松平容保公です。
 この京都守護職に就くと、会津藩が、財政難になって崩壊すると、藩内では、反対の声が強かったんですが、容保公は、京で死ぬ覚悟で、引き受けられました。
 慶応三年十二月九日(僕の誕生日と一緒やん!)、大政奉還に伴い、この役職は、廃止されました。
 しかし、この間、容保公の体調は、何度も悪化し、そのたびに、体調不良で、この職を辞したいと考えられたのですが、容保公は、孝明天皇からの信頼が厚く、結局、最後まで、勤め上げられたのです・・・。
 だから、会津藩は、佐幕でもあり、勤皇でもあるのです。新選組が、佐幕でもあり、尊皇攘夷だったのは、このためかもしれません。

 このことは、新選組副長助勤たくいたも知りませんでした。新選組が、池田屋騒動から、羽振りがいいので、会津藩は、ものすごく金持ちだと思っていたので、これは調べて意外でした!

 容保公…。
 これほど義理に厚い方を、僕は知りません!斉藤一さんが、土方さんと箱館へ行かず、会津で最後まで戦ったのが、なんとなく理解できました!僕も、その頃生きていたら、会津で戦っていたでしょう!

 新選組副長助勤たくいた、この六月、必ず、会津へ参ります!
 


京都御苑 ~堺町御門・鷹司邸跡 久坂玄瑞死す~ [京都御苑]

 昨日は、ここに辿り着けないし、深夜2時過ぎ、ようやく書き上げたページも、写真をアップした瞬間、消えてしまったし…。
 散々でした・・・。ソネット・・・。

 今日は、いささか緊張気味です。
 ホームページって、誰が見てるかわからへんで!と言われてましたが、本当にわからないね!
 そんな新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 禁門の変の説明は、「京都御苑 ~蛤御門~」で、書いたんで、今日はカットです。

 地下鉄丸太町駅を出て、御所に向かうと、見えてくるのが「堺町御門」!
 新選組好きな方で、時間があれば、九条河原(銭取橋)から、竹田街道を通って、ここに辿り着くと、それなりに距離感がわかってイイと思います。
 あまりお薦めしませんが・・・。

 禁門の変の大詰めは、ここ堺町御門・鷹司邸です!
 堺町御門から真っ直ぐ進むと、「鷹司邸跡」がある。

 禁門の変の時、真木和泉の率いる長州軍が、堺町御門が、越前兵に守られていたため、鷹司邸の裏門から邸内に侵入。鷹司公が参内の支度をしていたため、久坂玄瑞がお供として参内し、朝廷に嘆願したいと頼んだが、聞き入れられず、長州軍は、蛤御門も中立売御門も、敗退していたので、鷹司邸も、諸藩の軍に包囲された。長州軍は、ここ鷹司邸から大砲や鉄砲で、堺町御門を攻撃。会津藩は、九条邸から、鷹司邸を砲撃し、諸藩の攻撃で、長州軍は敗走した。
 長州の久坂玄瑞は流れ弾で負傷し、この鷹司邸で、自害して果てる。

 この砲撃で、鷹司邸から、火の手が上り、京の街が、三日間、大火で燃えるのであった・・・。

 結局、長州の奴らが原因で、僕の大好きな京の街は、焼けてしまう。。

 新選組が、池田屋騒動で、京の街を、一度は守ったというのに・・・。
 それなのに、負けて「賊軍」って、あんまりじゃございませんか!
 


京都御苑 ~蛤御門~ [京都御苑]

 先日、屯所で働くおなごの一人が、「整髪料は、何使ってはるんですか?」と聞いてきたので、
 「あ~、ムース!」
 と、こたえたら、
 「ムースって、おっさんですやん!今は、ヘアーワックスですよ~!」
 と、ぬかすので、ヘアーワックスで、「土方歳三」ヘアーにした新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!これでヤングの仲間入りです!ちなみに、好きな隊士は、山南総長です。

 今日のテーマ、蛤御門に行く前に…。
 文久三年(1863)の八月までは、京の政界は、長州が力を持っていたのですが、これを快く思わない公武合体派の会津藩と薩摩藩が、手を結び、武力を持って、クーデターを起こしました。やってやりました!御所の各門に兵を集め、長州藩の堺町御門の警備の任を解き、京都から排除し、これに関わった公家を、謹慎処分にし、京の政界から排除しました。これを、文久三年の八月十八日に行ったので、このクーデターを「八・一八の政変(七卿落ち)」といいます。この政変の時、我らが「新選組」は、堺町御門の警備をして、正式に、「新選組」を拝命し、市中取締りを任されるようになります!
 ここで、長州藩の意見が対立します。
 素直に国に戻って、富国強兵して、再起をうかがおうとする桂小五郎・高杉晋作らと、武力を持って、失地回復をせんとする過激な久坂玄瑞、来島又兵衛らが対立。後者の急進的なグループが挙兵して、長州軍は、京に向かいます。やっぱり君達は、「過激」だよ!
 
 蛤御門。
 宝永の大火(一七〇八)の際、それまで開けられたことのなかったのに、初めて開門されたことから、「焼けて口開く蛤」に例えられ、「蛤御門」と呼ばれるようになりました。
 今では、この門を出ると、丁度、京都の有名なラジオ番組「晃瓶のほっかほかラジオ」で有名なKBS京都があります。僕がよくお邪魔している「鮎ちゃん奮闘記」の鮎ちゃんは、この番組のレポートカーで、街の声をひろってきはります。はっきり云って、上手いです!これは余談。

 話を戻します。京へ向かった長州軍は、京都御苑に向かいます。国司信濃の軍は中立売御門へ。来島又兵衛は蛤御門。児玉隊は下売立御門。真木和泉、久坂玄瑞は、堺町御門から御所へ向かい、警備にあたっていた会津・薩摩を中心とする幕軍と戦いました。これが、「蛤御門の変」です。
 蛤御門が、一番の激戦地で、ここを攻めた来島又兵衛は、薩摩藩の銃弾を胸に受け、蛤御門近くのムクの木辺りで戦死しました。

 このとき、新選組は、竹田街道の九条河原で、陣を張っていて、御所で戦いが始まったときいて、京都御苑へ向かいますが、堺町御門に着いた頃には、勝敗が決まっていて、幕軍と長州の残党を、挟み撃ちにしました。そら、ここから御所は、遠いもん・・・。御所に着いたら、大勢、決してるよな~。
 
 一応、そんな活躍してないので、新選組が陣を張ったという勧進橋の写真は、小さい写真でアップします・・・


京都御苑 ~学習院跡~ [京都御苑]

 2日も休むと、仕事から大分遠ざかってるような気がして、駄目人間になったような、そんな感じがする新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 
 
 京都御苑シリーズ第二弾は、学習院跡です。
 学習院といえば、皇族の方が行く、セレブな学校で有名ですが、あの学習院は、ここの学習院が、名前の由来です!だからこっちが、本家本元なんです!
 江戸から来た旅行者が、
 「あれ、学習院って、学習院大学と一緒の名前ジャン!?」
 と言ったら、ツッコミまくってあげてください。これは余談。

 学習院。
 弘化四年(1847)。孝明天皇が、空き地の一部に学習院を建て、四十歳以下の公家をはじめ、御所に勤務している子弟に学問を教えることにしたそうです。さすが、教育熱心な陛下です。
 しかし、最初は、国学などを教えていたのですが、文久二年(1862)に、草莽卑賤の者の建白を学習院に提出することを許可したため、志士たちの政治活動の拠点となってしまった・・・。そのため、桂小五郎、宮部鼎蔵、平野國臣、久坂玄瑞ら「学習院出仕」の志士たちの拠点になってしまったのです・・・。

 新選組から見ると、清河八郎が、将軍家茂の京都護衛の為に、江戸で募集した「浪士組」が、上洛したときに、新徳禅寺で、彼らに、「尊皇攘夷の急先鋒になれ!」と演説したことは、このブログの新徳禅寺の巻で書きました。そして、清河は、「攘夷」をする!ということを、浪士組の人達に、建白書に署名させて、提出したのが、この学習院なのです!
 その時、この清河に異議を唱えて、京都に残ったのが、近藤勇さんと芹沢鴨たちの一派で、新選組誕生のきっかけになった場所なんです。
 その建白書に、朝廷が、攘夷を許可したので、清河をはじめ、他の浪士組の人達は、江戸に帰っていきました。

 この学習院跡には、サクラマツがあります。
 倒木を貫いて、いくつもの根を張るヤマザクラ。まだ、元気な頃のマツの木に落ちたヤマザクラが発芽して、生長したもので、その姿からサクラマツといいます。
 春の桜が咲いてるサクラマツが見たいので、写真撮れたら、きれいなサクラマツをアップしますので、乞うご期待!

 4月6日から、御所の一般公開があるので、行ってきたいと思います。


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