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侠侶、市中見廻り ~その3~ [四条・三条界隈]

 金庸先生の影響で読んでるんですが、面白いです。この本。


精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

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 しかしながら、まだまだ上巻なので、東方不敗誕生を読み解くところまでは至りませんでした。

 しかし、フロイト先生の人間に関する観察と洞察は凄いです。感動。


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共通テーマ:恋愛・結婚

桂小五郎・幾松寓居跡 [四条・三条界隈]

 今日は、春みたいに温かいね!明日は、京は雨らしい…。
 折角、久しぶりに角屋でも行ってこようかと思ったのに…。今年は、巡回の度に、雨が多い…。日ごろの行い、イイはずやのに…。
 体張って、京の街を守っているのに…。そんな新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 長州藩跡の京都ホテル・オークラの近くの高瀬川のほとり、後日書きますが、佐久間象山遭難の地(あの河上彦斎に斬られたところ)の近くに、桂小五郎と幾松の寓居跡があります。今では、日本料理「幾松」になってます。忍者屋敷みたいで面白いらしいですよ!僕らの近くでは、近藤局長しか行ってないんで、伝聞形…。
 この家に踏み込む度に、幾松の機転と度胸で、桂は、何度も命を救われている。
 近藤局長も、「幾松、天晴れ!」言うて、それ以上調べなかったという…。

 さすがです!局長。

 司馬遼太郎の小説を読むと、近藤局長が、傲慢なアホみたいな書かれ方してるが、そんなはずないだろう!そんなアホな男に、土方さんや斉藤さん、沖田さん程の男達が命をかけてついて行くと思えへん!

 あ、そうそう!今日は、桂小五郎ね。
 基本的に、長州の奴は嫌いだ!昨日のブログ読めば分かると思うけど。でも、桂小五郎は、剣が強いはずなのに、「逃げの小五郎」という、屁たれ感漂う綽名を持つ、松下村塾の暗い・シツコイ連中とは、違う何かを感じる。江戸の斉藤弥九郎の練兵館に入門。塾頭になって、神道無念流、免許皆伝だから、相当な腕の筈なのに、人を斬らない。そんなこともあってか、嫌いになれないんだ。仕事柄、「桂、コノヤロー!」とか、口にするけど、内心、そんなにそう思ってないんだよね(新選組副長助勤っていう立場上しゃーないやん!部下の前で、そんなん言えへんやん。でも書いてるか!?)。

 しかし、この男、本当に捕まらない…。二条大橋の下で、乞食の格好して隠れていたらしいし、我らが新選組の追跡を逃れ、出石に潜伏していたこともある。

 八・一八政変の時も、京に残り、長州の信頼回復に努める。
 池田屋騒動の時は、運よく、対馬藩邸に行ってて、池田屋に立ち寄ったにも関わらず、助かっている(くそーっ!)。本当、悪運の強い野郎や…。
 子供の時も、藩医の子に生まれるも、医者の養子をとっていたため、桂家に養子に入り、その後すぐに、養子先の桂九郎兵衛が病死したため、九十石と「中士」という位を手に入れる…。(運のいい野郎だ!)

 運のいい野郎は、京で、幾松という美人芸者に惚れられて結婚します(うらやますぃー!)。
 たしかに、桂、男前だ!さわやか文学青年みたいだ!
 チキショー!

 明里ーっ!!

 こんな終わり方でいいんだろうか(いや、よくない…)!?

 桂小五郎は、明治10年、「西郷め!ええ加減にせんか!」という言葉を残して病死。西郷隆盛のこと、目茶苦茶嫌いだったのは有名です。

 考えたら、幕末の五年間、桂と新選組は、常に同じ現場にいたんやな~って、今更ながら思う。


京都ホテル・オークラ ~長州藩邸跡 長州びいきの方、気悪くすると思うので、立ち寄らないでください~ [四条・三条界隈]

 先日、東京・日野の「新選組まつり」行ってきました。
 後日、詳しく、書きたいと思います。「情熱大陸 ~新選組副長助勤たくいたの素顔~」(仮題)で行くと思います。アハハ

 今日は、長州藩邸跡…。現在の京都ホテル・オークラです。
 長州と聞くと、反射的に、「コノヤロー!」と思ってしまうのは、僕だけでしょうか…。僕の女が、ここで結婚式挙げたい!なんてぬかした日にゃ、往復ビンタもんだ!「式挙げるなら、リーガロイヤルやろっ!プン!プンッ!」ってなもんである(その前に、彼女つくれ!)。
 

 長州藩。
 言わずとしれた毛利の藩です。
 正月になる度、幕府に対する恨みを確認していたらしい…暗っ! 結構、根に持つタイプやね!
 もっと前向きに行こうぜ!

 幕末には、吉田松陰の「松下村塾」出身の奴らが、京の街で、無茶苦茶してました。久坂玄瑞、高杉晋作とか、悪名高い奴らばっかり。
 伊藤博文なんて、天誅はするは、女体盛りするは、政治手腕以外は、最悪…。伊藤の肖像画見るたびに、「あ!女体盛りのオッサン」のイメージが、抜けん…。
 文久三年(1863)我らが会津藩と薩摩藩が、「八・一八の政変」で、京の街から追い出しに成功するも、しつこいんだよ!久坂玄瑞。池田屋騒動、禁門の変と問題ばかりやらかす…。
 第一次征長の際、新選組の近藤勇局長は、二度も長州の萩へ行き長州と交渉しようとしはるのですが、広島までしか行けず、交渉できずに帰国ということもありました…。その頃、あの伊東甲子太郎は、チョロチョロ勤王の志士と密会していたらしい…アホか。
 
 その後、長州藩は、持ち前の暗さとしつこさ全開で、坂本龍馬さんの仲介で薩摩と薩長同盟を結び、後は周知の通りです。

 現在でも、戊辰戦争の影響から、萩市と会津若松市は、確執があるという…当たり前だ!
 赤穂義士の赤穂と吉良のところでも、和解するのに300年近くかかっとんねん!しかも、長州をはじめ官軍は、会津との戦争で、会津藩の死者3000人のうち半分しか埋葬を認めず、残りの遺体を野晒しにさせたりしてるのに、平成やからって、いちいち和解してられるかい!

 いかん…。つい感情的な説明に終始してしまいました…。
 


小川亭跡  [四条・三条界隈]

 明日、いよいよ日野!
 僕の中では、「情熱大陸」の音楽が流れています…。

 3月の半ば、新選組副長助勤たくいたは、朝の新横浜にいた…

 な~んて具合に、気取って行ってきます(笑)詳細は、またここか、「京都巡回日誌」にでも、掲載します。

 
 小川亭。
 縄手通りを三条下がったところにある京阪三条南ビルの敷地の中に、石碑が立ってます。
 ここは、老主婦テイ女が、経営していた旅館で、宮部鼎蔵、河上彦斎。藤村紫郎、松田重助ら肥後の藩士がよく利用していた。鴨川に面していたため、万一のとき、逃亡しやすかった立地も良かったため、勤王の志士達の会合にもよく利用され、桂小五郎や平野國臣も出入りしていたらしい。(そら、池田屋騒動の時、土方隊も調べるわな!)
 このテイは、「勤王ばあさん」と呼ばれ有名やったらしい。

 池田屋騒動の後、テイに、死んだ志士たちの身元確認をさせました。

 平野國臣の銅像を故郷に建設する際、テイが肖顔の検証もしたらしい。
 うち(新選組)の監察に欲しいくらいだが、勤王の志士派か…。残念…。

 しかし、本当、三条・四条・祇園・東山と志士の巣窟だな…。最近、この辺歩いていても、アウェイにいるみたいで、落ち着かん…。
 


高瀬川一之舟入 [四条・三条界隈]

 今日も、花粉症の薬飲んだんで、ラジオ大阪のあだちさんと水谷さんの「カンカン歌謡曲」聴いてたんですが、頭が、ボ~っとして、メッセージ思いつきませんでした…。
 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 明日、日野です…。感無量です…。日野といえば、新選組の聖地ですから。
 今日も、隊士達に祝福されて、副長助勤たくいた、感激です!

 今日は、高瀬川一之舟入です。
 ここは、伏見から物資を運んだ高瀬舟が荷を降ろした場所です。
 そう思うと、伏見っていうのは、当時、流通の拠点だったんですね。京都から大坂に行く時は、三十石船に乗って、天満橋まで行ったものです。新選組も、大坂に出るときは、伏見から船でしたから。
 
 ここは、池田屋騒動のあった翌朝、新選組隊士達が、流れに足をつけて、涼んだらしいです。
 池田屋騒動の日は、祇園祭の宵宵山。一番、蒸し暑いころなので、さぞ気持ちよかったでしょうね。


池田屋! ~池田屋騒動~ [四条・三条界隈]

 花粉症の薬のせいで、寝てばっかりの新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 仕事は、ちゃんとしましたよ!一応…。
 「京都巡回日誌」の更新してくれ!と、一部、新選組11番隊マニアの方から指摘もあったので、今晩、頑張ります…。すみません…。まだ、姫路城に行く前やったような…。

 池田屋!
 池田屋さんは、京阪三条で下車し、三条大橋を渡って、三条小橋を渡るとすぐあります!
 今は、ただのパチンコ屋になってます。寺田屋や酢屋さんは、残ってるのに、池田屋は、なんで残ってないのか!?
 昔は、こういう事件が起こってしまうと、営業できなくなるんです、ましてや池田屋惣兵衛は、勤王の志士を支援していた主。当然です!この事件の後、逮捕されて、牢にぶち込まれて、病死してます。
 寺田屋さんは、寺田屋騒動の直後、店の経営者が変わってしまったので、幕末のころでも、営業できたのです。酢屋さんは、長い間、坂本龍馬さんが住んでいたことを知られなかったので、今でも残っているのです。

 池田屋騒動。
 元治元年六月五日、深夜(午後11時頃)
 祇園町会所から、先斗町を通って、近藤隊が、ここ池田屋に到着する。近藤局長、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平ら10名。
 桂小五郎も、近藤局長が池田屋に到着する一時間半前くらいに、池田屋に立ち寄るが、誰も集まっていなかったため、対馬藩邸に行ったという…。悪運の強いヤツだ!
 近藤局長が、池田屋に入って、主人池田屋惣兵衛に、
 「新選組の御用改めである!!」
 と叫ぶと、惣兵衛が慌てて、二階に上がり、不逞浪士に知らせに行こうとした。怪しいと思った局長が主人について上ると、不逞浪士たちがいるいる!
 二階に近藤局長、沖田さん。一階に永倉さんと藤堂さん。入り口を武田観柳斎と谷三十郎。裏口に副長助勤安藤早太郎さんに奥沢栄助、新田革左衛門が配置!
 不逞浪士達は、突然の新選組の襲撃に、脇差を抜き、明かりを消して闘ったという。
 近藤局長も、三回ほど斬られそうになったというし、沖田さんも二階で五人相手に勝負し、その一人を鮮やかに斬捨てたため、残りの者が戦意喪失。吐血して戦線離脱したにも関わらず、相手が攻めてこなかったという(沖田さん、強すぎ!)。一階の藤堂さんは、汗でずれた鉢がねを直してるところを襲われ、額を割る大怪我を負い、永倉さんに、間一髪で救われる。その永倉さんも指を負傷したという。一番、被害が大きかったのが、長州藩邸方向にあった裏口から逃げようとした浪士たちが二階から多数飛び降りてきたため、奥沢さんが戦死。安藤さんも新田さんもこのとき深手を負い、事件一ヶ月後に、亡くなられました…。
 一時間後、近藤隊が絶体絶命の時、土方隊が、「待たせたな!」と言って来たかどうかわわかりませんが、ようやく到着!後からきた会津藩に手を触れさせることなく池田屋騒動は解決しました!

 めでたし!めでたし!
 相手方の被害は、石川潤次郎、北添佶磨、宮部鼎蔵(大物だ!)、伊藤弘長、大高又次郎、吉田稔磨(大物だ!)、望月亀弥太らが死亡。20数名を逮捕しました。

 この事件で、明治維新が一年遅くなったとも、長州藩が追い詰められて早く実現したともいわれています。
 でも、これをきっかけに「禁門の変」と時代が動いていくので、個人的には、明治維新を早めたと、僕は思います。

 一気に書いたので、多少抜けてるとこもあるけど、ちょっと疲れました。


鳥新 [四条・三条界隈]

 今日、京阪三条へ、靴買いに行ったんですが、京都市内の花粉の量が半端じゃなくって、気持ち悪くなったんで、靴買って、服も、ひさしぶりに見ようと思って出てきたんですが、そんな気力も消えてなくなり、小川亭の場所を写真に収めて、宇治に帰ってきました…。
 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 本当なら、今日、「池田屋」の予定だったんですが、「義経」を見てたら、こんな時間になってしまったので、「池田屋」は、多分、次回やります。多分…。

 今日は、「鳥新」!

 鳥新っていうのは、鳥料理の店なんです。行ったことありません…。

 何故って?

 高いから…。水炊きに7千円も8千円も使えへんよ~。実際。

 牛肉ちゃうから…。鳥やから…。

 ただ、ここは、あの「坂本龍馬」さん、行きつけの店なんです!

 坂本龍馬さんも、新選組副長助勤たくいたも、大の鳥好き!龍馬さんは、ここ「鳥新」!僕は、伏見の「とりせい」!当時、会ってたら、鳥食べながら、意気投合してたかもしれません。

 龍馬さんが、近江屋で、暗殺されるのですが、その直前、この「鳥新」に、丁稚に軍鶏を買いに向かわせたという話も伝わるほどです。

 一回、あぶく銭が、入ったら、副長助勤たくいた、部下の隊士達を連れて、ここに来たいもんです。


三条大橋 ~池田屋騒動編~ [四条・三条界隈]

 今日は、京都、春の陽気なんですが、おかげで花粉症が酷くて…。
 大坂に行って、嫌なこともあったし、なんかふんだりけったりですが、そんなことも、日野のことを考えると、どうでもいいことに思えてきます。
 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!

 今日は、三条大橋。
 新選組のストーリーは、三条大橋に始まり、三条大橋で終わるといっても過言でないくらい、新選組スポットなんです。三条大橋にまつわる説明は、後日するとして、今回は、池田屋騒動と三条大橋にスポットをあててみます(単に眠いから、テーマを絞ったという説もある…)
 
 池田屋騒動の時、近藤隊は、祇園町会所から四条通を真っ直ぐ進み、四条大橋を渡って、先斗町を右折、そしてそのまま「池田屋」に向かったのですが、土方隊は、東大路通、花見小路通、大和大路通の旅館をしらみつぶしに探索します。おかげで、土方隊は、近藤隊に遅れること一時間後に「池田屋」に到着するのですが、そのとき、土方隊は、三条大橋を通って、池田屋に行きました。

 祇園界隈なら「井筒」や「小川亭」なんかも探索したといわれてます。

 三条大橋の擬宝珠に、池田屋騒動の際についたという刀傷跡があります。ウソかホンマかわかりませんが…。三条大橋を通る時、一度確認してください。三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠にあります。しかし、なんで、傷がついたんやろう…?


丹虎旅館跡  [四条・三条界隈]

 まだまだNHK大河ドラマ新選組!」作文コンクール 京都特別賞受賞の余韻冷めやらぬ新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
 今日、新幹線の手配も済ませ、あとは行くだけです!

 撮りだめした写メールを見てがっくり!
 本当は、今日は、「小川亭」という勤王の志士を支援した女主人二人が経営していた旅館を書こうと思ったのですが、きちんとファイルされてなくて…。

 急遽、「丹虎旅館跡」です!
 ここは、池田屋騒動の際、先斗町から池田屋に向かった近藤隊とは、別に、祇園の志士が泊まってそうな旅籠をしらみ潰しに探した土方隊が、探索したといわれています!池田屋騒動の前夜、宮部鼎蔵(大物だ!)も泊まっていたらしい!

 ここには、文久二年、あの土佐勤王党の武市半平太が住んでいたところでもあります。
 武市半平太…。
 前にも触れましたが、新選組副長助勤たくいたにとっては、敵の中でも、久坂玄瑞と並んで、大物ボスキャラである!
 幼少の頃から、文武両道で、国学、書画、剣の腕も立ち、江戸に出て桃井春蔵の下に、安政三年入門し、翌年、塾頭になるほどである。むむっ、やるな!しかも、江戸から戻ってくると、剣道の腕で、終身二人扶持を給せられたそうだ。
 文久元年、江戸に修業に行ったときに、桂小五郎、久坂玄瑞ら過激な尊攘派志士たちと交わり、帰国後、下級武士、郷士を集めて土佐勤王党を結成した。
 身分制度の厳しい土佐藩にあって、武市は、郷士の中の最上位の白札郷士という階級で、これも、武市が頭領になるには十分は要素だったらしい。
 後は、周知の通り、土佐では、吉田東洋を暗殺し、京の都で、岡田以蔵や田中新兵衛を使って、「天誅」の名の要人暗殺を繰り広げるのである…。
 
 
 土佐勤王党弾圧のとき、岡田以蔵の毒殺を謀ったが失敗、その後、以蔵の自白によって、切腹となる。

 京の町で無茶苦茶しやがって!

 しかし、歩いていて思うのは、東山から三条四条あたりというのは、勤皇の志士の巣窟みたいな場所で、ここが管轄の新選組は、本当、命懸けだったと思う…。

 ちなみに、この武市の住んでたここの隣に、天誅組の乱に参加した土佐の吉村寅太郎が住んでました!

 


古高俊太郎邸跡  ~「池田屋騒動」の発端~ [四条・三条界隈]

 副業の方が忙しく、その後、体調不良で、「幕末紀行」滞ってました…。

 決して、ネタ切れしたわけじゃないので、そこんとこ宜しく!です…。

 新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ…(まだ、本調子じゃない・・・)

 ですので、今日は、サクッと行きます!

 これから数編に渡り、池田屋騒動までのスポットを紹介していきます。

 
 古高俊太郎。近江郷士で、梅田雲濱の「湖南塾」に通い、梅田を師事する。このときから、危険分子だったわけだ(新選組的見地から言うと)。
 京都に入って、有栖川宮の臣下と交わったり、長州・土州の勤王の志士と交わり、武器なんかも調達してたりしてたらしい。とんでもないヤツだ!

 表の顔は、薪炭商 枡屋喜右衛門としてノウノウと暮らしていたわけですが・・・

 古高の家は、四条から木屋町通りに入ってすぐのところにあります。

 元治元年六月五日、早朝。
 新選組が、この屋敷に踏み込み、武器や重要書類など押収。そして、壬生屯所へ連行しました。
 しかし、この古高、なかなか強情で、頑として口を割らない為、以前紹介した、旧前川邸で、土方歳三副長の、足の甲に釘を打ち込み、そこに蝋燭を垂らすという拷問で、ようやく白状させました!
 しかし、あのイケメンの土方さんが、こんなえげつないことするなんて、「燃えよ剣」を読んだとき、ショックだったことを思い出す(~遠い目)。

 古高の自白が、えげつないもので、「風の強い日に、洛中に火を放ち、その混乱に乗じて、会津藩主 松平容保公を暗殺し、御所から天皇を拉致して、長州へ連れて行く!」というものだ!

 こいつら、考えることが無茶苦茶なんだよ!

 こんな秘密を握ってる古高を奪還するために「池田屋」に集まった奴らを急襲したのが、「池田屋騒動」なので、まさに、これが事件の発端になりました。

 古高の家は、今は、「志る幸」という店になっています。この西隣が、土佐の谷干城の家でした…。谷も、一緒に襲っておけばよかった…。

 古高俊太郎の最期はについては、「六角獄舎」で、書いてありますので、そちらを見て下さい。


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